皆さん今年のゴールデンウィークはどのように過ごしましたでしょうか?私はかねてから行きたかった小笠原諸島に行ってきました。24時間の船でしか行けない絶海の孤島、一度も大陸と接したことがない成り立ちからの豊富な固有種、目をみはるボニンブルーの海、などなど。大変楽しい旅でした。
ただ、昔から感じているですが、どのような旅でも観光でも、どこかに「哀しみ」が漂っているのです。もちろん終わって日常生活に戻らなければならない哀しみはありますが、ほかにもモヤモヤとした哀しみがあるのです。その哀しみについて書いたエッセイ集があります、酒井順子さんの『観光の哀しみ』です。
前書きでズバッと「観光という行為は、基本的には「招かれていないのに出かけていく」ことによって成り立っています。そして私は、そのことが観光につきまとう哀しみの、大きな原因ではないかと思っています。」指摘されています。エッセイ自体は「温泉」「京都」「土産物」「誰と行く」などの観光に関連する一つのテーマをとりあげては、ユーモラスながらも鋭くその哀しみを論じあげています。
私は特に「京都」の中で出てきた「観光客ゲットー」という言葉が好きです。ゲットーとは昔のユダヤ人強制居住地域です。ダサい観光客はゲットーに閉じ込めておいて、地元民の生活をかき乱さないようにしよう、といった感じです。私も特に日本の地方観光都市に行くと強く思うのですが(失礼、悪意はないです)、観光客は市内に点在するスポットを観光巡回バスで回り、スポットにつながる参道っぽいところで地元感満載ながらもよく見ると生産地は他県のおみやげを買い、観光客向けの居酒屋で映えるように盛り付けられた地元特産を食べ、宿泊は駅前のホテル。コレはコレでありですが、私はやっぱりなんか哀しみを感じます。今はもちろん地元民が行くようなスポットやお店を紹介するガイドもたくさんありますが、やっぱり地元民の生活圏内に入っていくことに伴う観光客側のよそ者感はどうしても拭いきれず、やっぱりどこか哀しい、と私は感じます。
やたらと哀しみについて書かれている本ですが、決してネガティブな捉え方ではありません。むしろこの哀しみは観光から構造的に切り離せない一部で、逆にそれが観光に味をもたせているのではないでしょうか。楽しい面ばかりでく、哀しい面に視線を向けても、いいではないでしょうか。